ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

ズボラとおおらかさは似ているのかもしれない。


狭量になるくらいなら、怠惰でズボラな方がいいなと思います。

たとえば、急な来客によって部屋に砂埃が持ちこまれた時、髪の毛が残された時、ぴかぴかのタイルにうっすら足跡がついた時、イラッとする人生を送りたいとは思いません。ひどく神経質になってしまいそうです。仮に部屋が綺麗な時は、菩薩のような慈愛と無我の境地に到れるのだとしても、ちょっとでも室内の調和が崩れた瞬間ムカ着火ファイヤーになるのだとしたら、トータルで見た時、人生の六、七割くらいはストレスフルに過ごさねばならない気がします。メンタルがしんどいです。恐ろしい。

たとえばトイレが汚れていた時は、もー仕方ないなーと思いながら、せっせと掃除できる人間でありたいものです。というか、今がそんなかんじです。汚れるというのは、掃除したら綺麗になるということです。それは楽しいことです。少しいいことをした気になります。僕は、トイレのヒーローです。トイレの風紀委員であるより、ヒーローである方が自由で楽しいです。

ヒーローになるのが嫌な時は、さぼってもいいと思います。別に死ぬわけじゃなし。汚れなんてものは、気にしなければ汚れではないわけです。それは執着の典型のようなものです。執着から全然抜け出せていない。この世は悪しと見るから悪しなのであり、人の欠点は欠点と思うから欠点なのであり、憎しみは憎しむから憎しみなのであり、すべてのことは気にするから気になるわけです。気にしなければいいんです。

実は、おおらかさとズボラさは非常に近似な概念なのではと思ったりします。人が人を許すのは、心が広いからではなく、どうでもいいからではないでしょうか。それが自分にとって大事じゃないからではないでしょうか。そして、心を広くするのは難しいかもしれませんが、ズボラになるのは簡単です。

あるいは、広い心というのは僕ら人類が数千年の歴史の中で培ってきた空想上のミームでしかなく、実態なんてないのかもしれません。実は広い心というのは単にズボラなことなのかもしれません。だとしたら、僕は非常に心が広い好人物ということになりますので、がんばりますというお話でした。