ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

アクセスアップを狙った利他行為は、空の日銀から新札を得るようなものだなと思った話。

しばしばアクセスアップにおいては、利他行為が奨励されます。自分のブログにアクセスがほしければ、はてブがほしければ、拍手がほしければ、まず自分からやりましょう、隗より始めよというわけです。

その背景にあるのは、もちろん返報効果です。つまり、何か自分にとって利することをされた人間は、お返しがしたくなるものだということです。これは、そのとおりなのですが、アクセスアップの場合に積極的な利他行為が奨励される背景は、それだけではありません。

というのは、仮にアクセスというものが有限の資源であるなら、広告収益が流入の資源であるなら、いかな返報効果がはたらいたからといって、お相手もお返しを躊躇してしまうからです。もし、自分が直接的にコストを支払うのであれば、そのリスクはコストを支払わない時に比べて額面の二倍になります。相手はその効果を受け、自分はその効果を失うからです。全く同等の財産を持つ二人の人間が、片方に1ゴールドを譲渡した場合、二者の差は1ゴールドではなく2ゴールドになります。1ゴールドのリスクなら許容できても、2ゴールドのリスクは許容できないという人間は、この時点で返報を踏みとどまることになります。そうすると、返報効果を期待しての利他行為もまた、相手が返報してこない可能性の分だけリスクを増すわけで、お互いに萎縮しあって、慈善行為のスパイラルは止まってしまうわけです。ゼロサムゲームです。

しかし、実際のところアクセスアップの場合、資源は有限ではありません。アクセスの場合、アクセスすればするほどアクセスの総数は増えていき、決して目減りしません。空から降ってくるように、アクセスという資源は無限に増殖するのです。

では、広告収益はどうでしょうか。これは無限ではないのですが、直接的なゼロサムゲームというわけでもなく、間接的な連動型ゼロサムゲームといえましょう。広告収益は、お互いの利他行為によって増量されますが、収益享受者が収益を享受すればするほど、広告の単価というのは、ゆるやかに下がっていく形になります。これは、日本銀行の構図に似ています。つまり、ユーザが自然な発露として広告をクリックするのは、いわば空からじゃぶじゃぶと新札が降ってくるようなものなのです。お札が増えれば増えるほど、全体のお札の価値は下がっていきますから、量産されるプロブロガーの構図と、今の日経株価の状況は、意外に相似するなぁと思ったりします。(ちなみに、ここでいう新札は直接広告収入のことを指すのではなく、広告収入権のようなイメージです)

つまり、我々が気軽に利他行為できるのは、その行為に対して痛みがないからです。自分のお財布からは一円も負担がないからです。お財布は空にあります。我々は、ただ空から降ってくるお札を相手に渡しているだけなのです。空のお財布からお札を相手に渡すスパイラルが回れば回るほど、地上全体は裕福になるので、協力して回しましょう、これが利他行為であり、互助会のメカニズムかと思います。

それが悪いというつもりは特にありません。そりゃあ個人目線で経済合理化すれば当然そうなるよねという理解を最近持ったというお話でした。株のお勉強が、意外に身近なシーンで結びついたという例でした。

ジェンダーフリーの思い出。

学生の頃、僕の知る世界はやわらかく理想にあふれていた。僕が学生の頃は、ちょうど学校教育の一環としてジェンダーフリーの概念がのびやかになってきた頃で、男子校だったうちの高校にも、家庭科が導入されていたし、実際に「ジェンダーとは」といった授業をする講師が招かれたりしていた。

そんな片田舎で温室育ちだった僕は、それが世界のスタンダードなのだと素直に信じていた。性差というものは文明の進展と共に縮まり、日本にはどんどんジェンダーフリーが浸透しており、やがて真にジェンダーフリーな社会が実現するだろうと。

けれど、大学に進学した僕は、自分の認識と世間の実態との差を知ることになる。大学に通う若者たちは、どこまでも男は男で、女は女だった。互いの性の違いに自覚的で、むしろその性差を楽しんでいるようにすら見えた。それまで自分の中でジェンダーの無個性化こそが唯一の正義だったのだけれど、その正義は、この光景に出会うことで唯一性を失ってしまった。その概念を何と呼ぶのか、ジェンダーフリーの対義語でありながら、ポジティブな調和を示す概念の名前を僕は知らない。とにかくその非ジェンダーフリーな光景は、決してネガティブなものではなかった。何故ならば、当人たちが楽しそうだったからだ。この時、僕ははじめて、自分を男として扱ってほしい、自分を女として扱ってほしいという需要があることを知った。かつ、ひょっとしたら、その需要はジェンダーフリーを望む声よりもずっと多くのシェアを誇っている可能性にも。男は男と思われたいのだ、女は女と思われたいのだ、表面的に男女平等に手をあげつつも、実はそれは自分の性別のメリットを享受しつつ、かつ、更にジェンダーフリーのメリットも都合よく享受したいという限りなくいいとこどりの素直な欲望だったりするのだ、全ての人がそうでないにしろ、多くの人が。

その大学の頃に感じたカルチャーショックは年々強まっていくように思う。僕が学生の頃に受けた完全なるジェンダーフリー論は今では下火になってしまった。今生き残っているのは、基本的にジェンダーフリーでありつつも、それぞれの性差を許容する、よりリベラルなジェンダーフリー論のように思う。それは実際の社会需要による結果だろうと思う。日本がガラパゴスなわけではない。たとえば、アメリカ男性に求められる男性像は、日本のそれよりずっと男性的だ。男性は男性でありつつ、女性は女性でありつつ、かつフリーであるという方向性に傾いている気がする。

僕自身の考えも軟化し、その方向性をむしろ自然だと感じるようになってきた。純粋な初期のジェンダーフリーの講習を受けた時、僕は地球の未来にエルフを感じた。性差を限りなく薄め、高度に文明が発達した世界。きっと、その世界で人間は今よりずっと長命だろう。かつ、性差をなくし誰もが対等に暮らす中、人間は徐々に性的欲求すらもそぎ落としていくのではないかと思えた。何故ならば、その線引きは、ジェンダーフリーの持つ課題のひとつだったから。長命で、性的欲求を完璧に理性でコントロールし、唯一のパートナーを除き、いっさいの性差のない世界。それは、すごくエルフっぽいなと思ったものだ。そういう世界に迎う時、そんな運用で出生率は大丈夫なんだろうかと思ったりもした。けれど、成熟した文化が人類を滅ぼすのであれば、なんて文化的で美しい滅亡だろうかと思ったりもした。そういったところも含めて、僕が当初のジェンダーフリーにいだいたイメージは、とてもエルフだった。

今のジェンダーフリーはより人間くさくなった。ジェンダーフリーというのは、近現代のわずかな期間に流行した価値観で、やがて下火になっていくだろうという言説を見たことがある。あるいは、そうかもしれない。それはちょうど共産主義の実験のようにも感じる。50年後、僕の信じる、信じたジェンダーフリーはすっかり古臭くて、前時代的に感じるかもしれない。これは、やがて消えゆく概念かもしれない。でも、それもいいのだと思う。まず当人たちの幸せがあるところが大事である。それには色んな揺さぶりや逆行がありつつも、きっとおさまるところにおさまっていってくれるだろう。それが自然のなりゆきというものだ。