ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

オシャレ写真は、何故とりあえずセピアにするのか。


なんだかもやもやとするのが、写真です。

もともと写真を撮る習慣がないし、写真を撮ることで一瞬流れが中断される感覚が好きじゃないんですけど、今日のもやもやはそこではないかんじです。

こう、何故そんなセピアに加工するのかと問いたい。

何故そんなに太陽光を柔らかく加工するのか。何故そんな無意味に煙らせるのか。わざわざ現実と乖離させてまでオシャレ感を装って何がしたいのか。現地に足を運んでみたら、ごく普通の現実が広がっているだけのあのがっかり感。

いや、写真自体が独立した価値を持つならわかります。アートとしての写真なら、極論、撮影媒体である風景は、ただの素材なわけで。素材が実際どうだろうが、写真としての価値が成立するなら、それでよいと思うのです。

宣伝目的も、わからなくもない。それは、「マックのハンバーガーは、何故メニューの写真だと、実物の三倍くらいバンズが膨らんでいるのか」みたいな話だと思う。確信犯的嘘のつき方。罪作りだなとは思うけれど。だって、オシャレ写真に騙される人は、マックのメニュー写真に騙される人よりは、多そうだ。オシャレ写真市場が形成されていそうだ。業が深い。

けれど、部屋紹介とか、旅行レポートでそれをやっちゃうのは何なのか。そんな一張羅のべべ着て、厚化粧して、慣れないフランス料理を作って「突撃!家庭の晩ごはん」的番組に出るようなマネ、写真のコンセプト自体が崩壊していないか。

結局、どんなみすぼらしい風景も、オシャレ加工すれば、オシャレっぽい空間に早変わりするわけで、そんな糊塗しまくってまでシャレオツさを演出したい背後にある、背伸び感というか、見栄っ張り感というか、外面と他人の目を気にしまくり感というか、誰かからダサくね?と言われるのを怖がってる感というか、この空間はオシャレなんだぞという記号化を施したい意図がフレームの向こうから僕に襲い掛かってきて、あんまり好きではないのです。

その結果として、目デカ処理というか、顎シャープ処理というか、すごくいびつなミュータントみたいな写真になってやしないかと。風景写真のプリクラ現象化していないかと。これは今思いつきましたが。

現実は、現実のままでよくない? かっこ悪さはかっこ悪さのままでよくない? スケールは常に1/1で充分じゃない? そんな常に保護フィルムごしに守られたようなてらてらした質感を保ってなくても、モノはモノ、バショはバショじゃない? その拡大化・肥大化された現実とのズレの分だけ、自分の荷物が重くなったりしない? よけいなものを背負ってない?

それこそただの習慣というか、もうとりあえずセピア化しているような人もいるんだろうけど。見栄とか何にもなくて、単に手癖でやってるだけ。それでも、やっぱり合ってなくない?くらいには思いますが。

一言でまとめると「そんな気取らんでも」ということです。

ほんとさ。そんな気取らんでも。

なんてことを考えたりしました。