ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

他人の評価を信仰するあまり、実際を捻じ曲げる人がいる。


たとえば、ここに世界中の人からすごいすごいと喝采を浴びる凡庸な人がいる。
一方で、一度も表舞台に立ったことがないけれど、実はすごい人がいる。
さあ、本当にすごいのはどっち?と問うた時に、前者だと答える人が一定数いる。
何故と聞くと、世界中の人にすごいすごいと言われるのであれば、その人は何らかの要因によって本当にすごいのだと答える。
この設問にそんな事実はないと言っても、譲らない。
この時、その人は、他人の評価というものに信仰を寄せている。

設問がわかりにくいかもしれないから、マスクしてみよう。
たとえば、ここに世界中の人がステータスAと評価しているが、実はステータスBな人がいる。
一方で、誰からもステータスAとの評価を受けていないが、実際にはステータスAな人がいる。
さあ、実際にステータスがAなのはどっち?という、これはそういう設問だ。

この時、前者だと答える人は、実際にステータスAなのか否かではなく、他人がステータスAと評価しているか否かを信仰している。
言い換えれば、他人がステータスAと評価しなければ、実際にステータスAかどうかは証明されないと考えている。
これは、つまり、「他人がステータスAと評価している」を信仰し、「実際にステータスAである」という情報を信仰していないということだ。
けれど、実際値については設問の前提だから、設問自体を捻じ曲げて自分の信仰を守ることになる。

マスクしない設問は、まだその行為に意義がある。
何が凡庸か、何がすごいかは捉え方次第であり、主観の問題だ。
設問の前提自体が適切か否かを問題的してみることには、一定の価値があるだろう。
(とはいえ、それは設問自体とは切り離して考えるべきだと思うけれど。つまり、言葉のチョイスがおかしいけれど、設問自体は成立するよねということ)

ただ、世の中曖昧模糊なことばかりとは限らない。
マスクした版の設問のように、ひたすら実際値が実際値でしかない、1は1であり、1+1は常に2であるような設問も世の中にはたくさんあるのだ。
こういう時、「他人がステータスAと評価している」を信仰している人は、簡単に現実を捻じ曲げてしまう。

嘘科学に無限に騙されていく人のようなものをイメージしてもいいかもしれない。
嘘科学の方を信心するから、その嘘科学と矛盾した時、嘘じゃない科学の方を不信心する。

あるいは、こんな例を出してみる。
たとえば、「頭がいい」なんてワードでこの設問を彩るなら、これは主観の問題だ。
けれど、これを「テストで100点」なんてワードに置き換えれば、これは単に数字の話であり、実際値だ。
他人の評価を信仰する人は、その人が実際にテストで100点をとっているか否かではなく、他人の「あいつテストで100点とっていそう」のみを信じる。
実際に、その人に答案を見せてもらったところ35点だったとしても、「そんなはずはない。AくんもBくんもCくんも君が100点をとっているに違いないと言っている。だから、君は100点をとっているはずなんだ。この答案は偽物だ。本当の答案が別にあるんだろう? どこなんだ。早くそれを見せてくれ」なんて迫ったりする。

この例は極端だからおかしいとわかるかもしれないけれど、極端じゃなければ、見過ごすかもしれない。*1

つまり、それがここでいう信仰だ。

 

 

なんてことを、考えたりしました。まる。

*1:ちなみに、テスト自体が他人の評価ではないか、つまりこれは実際値ではなく、点数に主観が入り込んでいるのではないかというツッコミが入るかもしれないので、テストの内容は主観の入りこまないものであり、採点に人為ミス等はないものとする、なんて前提を敷くといいかも。「空気抵抗は考慮しなくてよい」みたいなものです