ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

よくわからないもの。それは旅行だ。


僕がよくわからないものに旅行があります。

旅行するという感覚が自分にはよくわかりません。観光することにメリットを見いだせない。旅行好きな人をDISるつもりはないけれど。僕にはその感覚がないのだという、それは確かなことなのです。

旅行好きのかたから「旅行してみたらわかりますよ」と言われたことがあります。でも、多分そういう話じゃないのです。そのかたは、たとえば僕が「三年間全く旅行に行かなかったら、旅行に行かない良さがわかりますよ」と言ったところで納得しないんじゃないかなと思います。僕も同じです。たとえば、三年間とにかく旅行三昧の日々を送ってみたところで、結局「やっぱり何がいいのかよくわからなかったよ」って言いそうです。

どうして旅行するという感覚がないのか。これを説明するのは難しい。何事も、せざるに理由をつけるのは難しいのです。何故旅行に良さを見いだせるかに理由はつけられても、何故旅行に良さを見いだせないのかには理由がつけられないのです。「旅行とはいいものだ」という前提から始まると「旅行に良さを見いだせないなんておかしい」という傲慢が生まれます。そいつは、危険な発想で、暗がりのモンスターです。デフォルトはnullであるべきです。

逆にいえば、すんなりこの辺の理由を説明できたら、このネタはメインブログの方で消化されていたことでしょう。それでも、僕は、差し出される煙草やはっぱや気の進まない飲み会を断る時のように、クリーンでスマートに辞退の理由を説明できないものか、定期的に考えてしまうのです。

なので、うまく説明できないながら記事という形をとってみたりもする。

多分、自分は目新しさとか物珍しさとかにあんまり価値を見出していないんじゃないかなという気がします。うーん。これは、あまり僕の気持ちにフィットした表現ではなく、なんとなく、まだ自分のもにょもにょとの間に「ズレ」を感じますが。目新しさとか、物珍しさとかいう単語がひとつの争点になることは確かです。

たとえば、「富士山の頂上に登ろうぜ」という体験を提案されたとします。この時、まず、僕が考えるのは、その体験は、富士山の頂上から撮った写真で代替できないのかということです。もう少しリアリティがほしいのであれば、google earthなどはどうか。

いやいや、現実の山頂から見下ろす広大な空間がよいのだと言われたとします。であれば、別に富士山でなくてもいいのではないかと考えます。今調べたところ、富士山の標高は3776mです。これが、たとえば3775mとか、3774mとかだったとしても、提案者の言う広大な空間というテーマが損なわれるとは思えません。であれば、もっと低い山でも要件は満たすはずなのです。

なので、自分からすると、近場の山で充分ではないかと思うのです。いや、山である必要すらないかもしれません。ちょっと高台にのぼって、そこから景色を眺めてみる。冬の朝、のぼってくる太陽をじっと待ってみる。自販機で買った120円のコーンポタージュをずずっとすすってみる。「寒いね」「誰もいないね」「もうすぐだよ」みたいな会話を、一緒に来た人と交わしてみる。そんなのでも、充分清々しい体験は可能なんじゃないかなと思います。

それが富士山でなければいけないとすれば、それは富士山というものが持つ目新しさ、物珍しさ、言い換えれば非日常性に価値を見出しているのかなと思います。

でも、論点がそれだけなら、結局見る人間のフィルタ次第、感じ方次第だと思うのです。日々暮らす町並みの中にも、見方を変えれば、目新しさや物珍しさは溢れています。少なくとも、僕は、自分の暮らす町を充分に知っているとはいえません。自分の暮らす街だぞという油断があると、ひょっとすると未開のジャングルより未知に溢れているかもしれません。知らないことばかりです。

僕らは、東京のど真ん中で突然孤独になることもできるし、誰もいない森の中でゴキゲンに騒々しい気分になることもできます。場所は関係ない。空間は関係ない。大事なのは、コアとなる自分の感じ方です。

ああ、そうだ、僕はミニマリスト志向者なので、こういう言い方にまとめてしまってもいいかもしれません。つまり、旅行のミニマル化です。

海外をぐるーっと回ってみるとか、現地を横断してみるとか、そういう大旅行は自分にとって重いのです。知らない路地にちょっと入ってみる。ぐねぐねとした道を突き進んでみる。すると、どういう需要で成り立ってるのかもさだかでない喫茶店を発見したりする。入ろうかどうか迷ってみる。気分が乗れば入ってみる。意外に落ち着いた雰囲気で、「この店は当たりだな」と思いながら、コーヒーをすすってみる。そういうの、ちょっと良いと思いませんか? こんな程度の体験でも、僕の体験欲は充分に満たされます。非日常性の閾値がすごく低いんだと思います。意識低い低い系。

もし、常に目新しさを追い求め、刺激を追い求め、その条件に合うスリリングな土地を探し続けているような人がいるなら、一度自分のレンズを磨いてみてもいいかもしれません。別に楽しいならいいのですが。もし疲れているのなら。疲れているのに、非日常性を求めずにはいられず、行き詰っているようなら。何かの代償行為として、旅行とか体験とかに不要な(そのボーダーを決めるのは自分自身です)養分を注ぎ込んでしまっているのなら。自分のレンズを、フォーカスを、ファインダーを、フィルタを、ちょっとメンテしてみてもいいのかもしれません。

意外に、それで解決する問題なのかも。なーんて。