ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

人にあこがれない話。


僕は、あんまりミーハー体質ではない方です。

有名人著名人に対して憧れみたいなのが、あんまりありません。ミニマリスト勢ですと、ジョブスさんや堀江さんの名前をよく聞くんですが、僕にとっては「知らないおじさん」でしかないです。個人的におつきあいがあるわけでもありませんし。報道されている事実が本当かもわかりませんし。何もご本人のことを知らないのに憧れるって難しくないでしょうか。

たとえば、マンションの隣に住んでいるおじさんに僕は憧れません。そのおじさんのことを何も知らないからです。近所の奥様がたから「実は、あのかたはすごい有名なバンドマンなのよ。ジミ・ヘンドリックスの前で演奏したことだってあるんだから」と言われても憧れるのは難しいでしょう。それが本当かどうかわからないからです。あと、ジミ・ヘンドリックスが誰かわからないからです。

ジョブスさんや堀江さんも、僕にとってはマンションの隣に住んでいるおじさんと差がありません。しいていえばものすごく部屋と部屋が離れているマンション、みたいなかんじです。ますます他人です。

でも、ご本人のことをよく知っていたとしても、憧れるというのは難しいのかもしれません。ちょっと思いつきません。この人いいな、見習いたいなと感じても、そこから先は自分がそうなるか否かの話だと思います。その人は関係ありません。たとえば僕の目の前に、僕の親友で石油王である田中さんがいたとします。僕が仮に田中さんみたいに石油王になりたいと思ったところで、僕が直接田中さんに憧れることは難しいと思います。だって、僕は田中さんになりたいわけではなく石油王になりたいのです。だとしたら、僕がとるべきアクションは田中さんに憧れることではなく、とりあえずつるはしを片手にアラブ行きの航空券を購入することだと思います。これは「本来憧れそうになるのを理性でより生産的行動に代替させている」というわけではありません。そんな意味のない行動をわざわざしないということです。僕は田中さんのような石油王になりたいと思った瞬間、野山でモンシロチョウを見つけてきてキスしたりはしません。意味不明だからです。同じです。田中さんに憧れることは、モンシロチョウにキスをするように脈絡のない行為です。どちらかというと、野原をバックにモンシロチョウにキスした方が絵として素敵だと思います。

では、僕が人生の中でまったく誰にも憧れた経験がないのかというと、そうではない気がします。小学生の頃僕は藤子・F・不二雄さんに憧れていたように思います。いつか彼に直接お会いするのが小学生ないなりの小さな夢でした。藤子・F・不二雄さんがお亡くなりになった時は、ああ、もう生涯お会いすることはできないのだと、それはもう悲しかった記憶があります。

でも、成人して色々な本を読みますと、僕が知らない藤子・F・不二雄さんがたくさん出てきます。小学生の僕が知っていた藤子・F・不二雄さんは、あくまでドラえもんを通して知った作者像、そしてメディアが演出した藤子・F・不二雄像でした。でも、実際の彼は生身の人間ですから、もちろん色んな側面がたくさんあるわけです。僕の知らない歴史がたくさんあり、僕の知らない人格がたくさんあるのです。言ってみれば、小学生の僕が藤子・F・不二雄さんだと思っていた何かは、メディアが作り上げた偶像に過ぎなかったとさえいえるかもしれません。とすれば、その頃僕は誰に対して憧れをいだいていたのでしょうか。非実在存在への憧れです。

多分、憧れとは人にいだくものではないのです。だって、今の例は実在の作家さんでしたが、別に架空のキャラクターに対して憧れたっていいわけです。随分前、セーラームーンに憧れた女学生が暴漢を撃退したというニュースを見た気がします。緋村剣心に青春をこじらせたかたがたは大層多いことでしょう。その時点で、憧れというものが人の実在非実在に関わらず、別個に存在しうることは自明です。

では、憧れとは何でしょうか。突き詰めれば、それは狂おしいほど胸を焦がす何かであり、シーンであり、情景であり、感情移入で、一方的な偏愛・依存のようなものだと思います。僕らはそれが愛しいわけです。その存在が尊いわけです。twitterを眺めていて、「尊い」しか語彙がなくなるように、時として僕らは何かに憧れてしまうわけです。それがシーンや、情景や、ある種の概念に対しての憧れなら、僕にもわかる気がします。言語化できないですが、僕にももやもやとして、不確定で、でも、なんだかとても大切な、いとおしい、尊い何かを感じる時があります。それは、僕が目指したい、至りたいある種の極地です。時々その輪郭を一瞬だけなぞれているようなときもあります。でも、すぐにわからなくなります。それが憧れかといえば、これ以上ないほど僕は憧れているような気がします。そのためなら、モンシロチョウにキスすることだってやぶさかではありません。