ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

背丈と恋愛対象について「僕だけがいない街」を観て思う話。


ないなりです。

背丈と恋愛対象について書きたいと思います。

ちょっと前の話ですが、やまさんのオススメで「僕だけがいない街」のアニメを観ました。面白かったです。漫画もkindleでいっき買いして、最終巻の発売日を楽しみにする程度に面白かったです。

僕だけがいない街」は、29歳の主人公が、とあるきっかけでタイムリープし、二度目の小学時代を送るというストーリーです。当時、主人公の通う小学校では、数度に渡る女児殺人事件が起こっており、主人公はこれを未然に防ごうと奔走します。

その過程で、主人公は被害者(予定)である少女と仲良くなります。仲良くなるを通り越して、時々いい雰囲気になります。そのたびに主人公は「しっかりしろ、29歳!」と自分を叱咤するわけですが、これが本記事で取り扱いたい点です。

主人公は精神的には29歳で肉体的には11歳なので、同じく11歳の少女に恋愛感情的なものを感じた瞬間、精神年齢と肉体年齢のギャップから上記のようなセリフを心中で発するわけですが、これ、結構実際にありそうだなあと思ったのです。

なんとなくなのですが、恋愛対象というのは背丈で決まるような気がするのです。ここでいう「背丈」は実際の背丈よりもうちょっと意味が広くて、同年代感というか同世代感くらいの意味で使いたいところです。

というのは、たとえば自分が小学生時代の頃、中学生は巨人に見えた気がするからです。自分が中学生の頃は、やはり高校生が別種の生き物に見えた気がしますし、自分が高校生の頃は…以下同文です。

そもそも、子どもというのは自分を子どもとは思っていないものじゃないですか。ないなりには、小学生当時、テレビの子役が自分より年上でびっくりした経験が何度もあります(例:天才テレビくん)。

モニターなどで俯瞰すると、大人との体格差で「これは子どもだ」と客観視できるけど、自分が主体の世界だと、あくまで「人間」の基準は自分になってしまうのですね。それより巨大な人間は巨人で、それより小さい人間は小人というわけです。*1

逆に、成人した今だと、学生はすごく子供に見えます。ないなりには、歳の離れた従弟妹がいるのですが、彼らが大学生にあがっても、ないなりの中の認識はやっぱり子供枠のままです。*2その同級生を恋愛対象にするという発想は、少なくとも僕はあまりもてません。昔(自分が大学生だった当時)はもちろんそんなことなかったのに、不思議です。

つまり、自分の年齢帯に合わせて、恋愛対象のスケールも自然とその付近にとどまるんじゃないかなと思うのです。

噛み砕くと、歳をとればとるほどストライクゾーンも一緒にスライドしていくんじゃない?ということです。

そうなると、起点となる年齢帯が精神年齢なのか肉体年齢なのかという疑問がわきます。

結論をいうと、自分は肉体年齢なんじゃないかなと思います。

何故かというと、仮に小学生の体に自分がタイムリープしたら、やっぱり中学生が巨人に見えるんじゃないかなぁという気がするからです。物理的に目線も下がりますし。本来の自分と同年代の大人なんて、小学生の視界から見たら、巨人も巨人、おじさんおばさんにしか見えないと思います。となると、人間認定できる範囲は自然と同学年くらいに限られるわけで、自然と恋愛対象のスケールもそれに合わせて同学年になるような気がします。

つまり、精神年齢が何歳だろうが、10歳の肉体に入れば10歳の異性に魅力を感じ、40歳の肉体に入れば40歳の異性が魅力的に映るんじゃないかと。精神年齢とのギャップに苦しむかもしれませんが、あくまでそれは精神年齢をベースにしたモラリティの問題に終始するんじゃないかと。

噛み砕き直すと、歳をとればとるほどストライクゾーンも一緒にスライドしていくんじゃない?仮に若返ったら、ストライクゾーンも一緒に下がるんじゃない?とにかく肉体年齢が基準なんじゃない?ということです。*3

なので、僕だけがいない街」の描写は結構リアリティがあるんじゃないかなぁなどと思いながら、見ていました。

そんな話でした。

 

*1:本稿での小人は差別的意図で用いる小人とは別の意味なので、混同なさらぬようお頼み申す。

*2:全然関係ないけど、うちの従弟妹らめちゃ可愛い。マジ天使。

*3:では、いくつになっても学生が好き!みたいな人がいる現象は何なんだろうとも思いましたが、よくわかりませんでした