ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

夢中になると、色々忘れる。老いるということは、夢中になることかもしれない。


僕は、忘れっぽいです。特に何かに夢中になっていると、てきめんです。今だと、再開したばかりのブログなどがそれです。こうなるともうひどくて、日常がそれ一色になります。色々すっぽ抜けます。忘れまいと紙に書くのですが、その紙を持参すること、持参した紙を見ることも忘れてしまうので、始末に負えません。夢中なのです。

今日、ふと考えたのですが、歳をとって物覚えが悪くなったり、すぐ忘れたりするのは、もしかして何かに夢中になっているからかもしれませんね。年齢と共にハードの性能は劣化していくので、今までできていたことがだんだん大変になってきます。大変なことは夢中にならないとできないです。だから、夢中になった結果として、人は物忘れするのかもしれませんね。

だとすると、いわゆる痴呆症などに僕がなった時、僕はもうどれほど夢中なのでしょうか。ひょっとして、実はものすごく楽しかったりするのでしょうか。子どもの頃、野原を駆け回った時のように、夢中なのでしょうか。その野原は、大人になった身からすると、大した野原ではありませんでした。集合住宅の隙間にぽっかりと空いた狭い空き地でしかなかったのです。でも、小さい僕は、小さかったので、相対的に野原は広大でした。足も今より遅かったので、より広く感じました。僕の体が今くらい大きくて、今くらいのスピードで歩けたら、僕はあれほど野原を広大に感じたでしょうか。つまり、感覚はスペックに依存するということです。ということは、スペックの低下と共に、あの広大な野原は、ふたたび僕のもとに帰ってきてくれるのでしょうか。

もし、そうだったら、とてもいいなと思います。70、80になった僕は、まるでCeleronMで稼働する最新MMORPGのようでしょう。圧倒的低スペック。マシンはがりがりと音を立てている。レスポンスはいつ返るともしれない。その状態が夢中であるならいいなと思います。何もかも忘れて、夢中で打ち込めているなら、単なるゲームの描画処理も、CeleronMにとっては人生の冒険になることでしょう。