ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

生活に余裕がある人がスピリチュアルに傾倒し、生活に余裕がない人が自己啓発に傾倒するとするならば。


少し抽象的で少しスピリチュアルな、心に届く言葉みたいなのがあります。人気です。ものによりますが、僕も嫌いではありません。ただ、こういう少し抽象的で少しスピリチュアルな、心に届く言葉というのは、生活・文化的に余裕がないと、響かない気がします。たとえば、ゾンビの大群に追われて今にも飲み込まれそうになっている人に「ふっと振り返った時に、誰かに手を差し伸べられる人でありたい 1,012RT 988FAV」みたいなことを言ったところで「うるせえ、それどころじゃねえ(銃声)」でおしまいでしょう。アジトに無事たどりつき、重たい鉄の扉に鍵をかけてやっと一息ついたタイミングでも難しいでしょう。この人にそういう言葉が届くのは、クライマックスのキスシーンから暗転して、世界に平和と静寂が訪れた三年後くらいではないでしょうか。「ああ…今だったらその言葉も素直な気持ちで聞ける気がするよ…」見上げると、空には散っていったかつての親友、そして5分以上に渡るエンドロールの始まりです。

一方で、自己啓発というのは、逆に生活に余裕がない人に響くことが多いのではないかと勝手に想像します。なぜなら、自己啓発とは自分を変えようというものであり、このままじゃまずいという、現状からの脱出意志があるからです。たとえば、それは社畜として会社に消費される中でなんとか楽になりたいともがく中で藁にもすがるつもりで掴んだ一本の藁にも満たない何かかもしれませんし、差し迫る就職活動を前にして、このままでいいのだろうかという漠然とした不安に答える一本の杖かもしれません。とにかく、現状に対する何らかの不満・それに類するものが背景としてあるのではないかと思います。

注目すべきことは、少し抽象的で少しスピリチュアルな、心に届く言葉に傾倒する内の少なくない人たちが、自己啓発にも同じように傾倒する傾向を持つということです。つまり、この人たちは、生活・文化的に充分な余裕があるゾンビ映画のクライマックス三年後の守られた状態にありながら、同時に現状に満足してない、その状態を決してハッピーエンドと捉えていないということです。それが日本特有な問題なのかはわかりませんが、現状の自分のステータスの高さ、意外に恵まれている境遇に比べて、対する自己評価は反比例して低いという相関関係が見えます。

振り返ると、僕がそうで、自己啓発本は特に苦しい時に読んでいた気がします。転職を考えた時期がそうですし、仕事が忙しかった時期がそうでした。別に自己啓発本に救われたかったわけではなく、結局解決するのは自分だという意志はありましたが、少しでもそのアイディアとなるヒントを見出したくて、自己啓発本に限らす、色々な本を乱読していた気がします。

でも、じゃあ、その時、僕は生活・文化的に余裕がなかったかというと、違うと思うのです。帰れる家があり、給与があり、土日は休めていたのですから。いや、たしかに日々忙しいと多少「うるせえ、それどころじゃねえ(銃声)」モードに近づいていく感はありますが、映画の主人公たちのやばさと自分のやばさは比べるべくもありません。彼らが追われているのはゾンビであり、僕が追われているのは仕事です。生命の危機度が違います。あと、舞台映えも。

つまり、僕らが生活に余裕がないと感じる気持ちは、実は僕らの生活・文化的な実質的な余裕とは無関係なのではないかということです。全く関係がないとまでいいきると違うかもしれませんが、親戚の親戚の親戚、くらいには実は遠い存在なのかもしれません。じゃあ、何によって決まるかというと、僕らの自己認識によってです。どんなに生活・文化的に恵まれていても、本人が不幸だと感じるなら、不幸なのです。そういう時、人は本当は物理的に生活・文化的に余裕があるから、スピリチュアルなちょっといい話に耳を傾ける余裕もあるし、一方で生活に満足できていないから自己啓発にも貪欲な興味を示し、「スピリチュアルかつ自己啓発」という両者の相の子的な商材にもセンサーが反応するという、不思議なツーハンド状態になるのかもしれません。

それは全く悪いことではなくて、本人が不満ならその不満は解消すればいいのです。他人から見てどんなに幸せそうでも、本人が不幸せなら、それは不幸せでいいと思います。ただ、そもそも単に自己評価が低くて、自分が実は自分的にもなかなか幸せといえるかもしれない状態に気付いていないのだとしたら、これは再考の余地があります。すがる藁は多い方がいいわけですから、自己啓発本にアタックしてはあれこれ考えるように、同じく「あれ、待てよ、自分の生活にも振り返る余地があるぞ。実は見方を変えれば、この状況、そんなに悪くないんじゃない?」みたいに考えてみるのはアリだと思うのです。

もしやたらふわふわした抽象的で精神的でスピリチュアルな言葉が心に染みて、一方で自己啓発も心に染みるのであれば、それはツーハンド状態が成立しているサインかもしれません。「あれ、おかしいな、生活に余裕がないつもりだったけど、そういう言葉が心に染みるくらいにはまだ余裕があるぞ?」と。それは考えるきっかけになるでしょう。その結果、「あ、もとから意外に大丈夫じゃん」となるなら、これはそれこそ幸せなことです。そういうふっとした時に自分を客観的に振り返るトリガーを、常に何個か持っておきたいなーと思いましたの巻。