ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

強く儚い者たちについて語ってみる。


久しぶりにcoccoの「強く儚い者たち」が思い出されて、ネットで解釈を漁ってみたりした。ネット上での、特に歌詞解釈は、どうなんだろうと首を傾げるものも多いのだけれど、こんなのを見つけた。

Coccoさん本人が語る「強く儚い者たち」とは - 国内アーティスト | 【OKWAVE】

タイトルからいかにもcocco本人の曲解説が読めそうなページだが、そういうものはない。ただのWEB上の質問箱だ。ただ、ベストアンサーのかたが引用している解釈はなかなか興味深い。旅の途中に立ち寄った街の女に、男は誘惑されるわけだけれど、この街の女とは誰なのか?という点を説明できているところが素晴らしいと思う。

この変形だけれど、僕はこんなふうに説明してみてはどうかと思う。

まず、このタイトルにもある強く儚い者たちとは誰のことだろう。この歌詞を解釈するうえで、この「強く儚い」というタームをどう紐解くかは重要だ。

語り手の女は男を誘惑する。あなたのお姫様は、あなたが宝島に到着する頃には、別の男と腰を振っている。それは誓いに対する裏切りだろうし、不逞だろう。あなたは裏切られているんだよと女は示唆する。

じゃあ、待っている女はどうするのが正しいのか。

航海には危険がつきものだ。男が無事に帰るとは限らない。待って、待って、おばあちゃんになるまで待って、一人で死んでいくのが正しいのだろうか。男が既に死んでいるなら、ただの待ち損だ。男が心変わりしている可能性もある。周りの人は彼女を嘲るだろう。裏切られたことにも気付かず、男を待つ馬鹿な女だと。その屈辱に堪えて堪えて、それでも報われなかった時、死に瀕した床の中で一片の後悔もなく最期を迎えられるだろうか。

確実に帰ってくるとは限らないひとを、ひとはいつまで待つべきなのだろうか?

一人で死んでいく決心がつかないなら、どこかで見切りをつけなければならないのだ。そして、見切りをつけるなら、なるべく若い内の方が痛みが少ない。待つというのは、この葛藤との戦いだ。

多分男を誘惑する女も、そんな「待ち疲れた女」なのではないだろうか。

上記のベストアンサーに引用された解釈と違うのは、ここである。女は過去に傷を負ったにんげんではなく、今まさに傷を負おうとしているにんげんなのではないだろうか。

待ち疲れた彼女は、今まさに男を誘って、自分のかつて愛したひととの誓いを断ち切ろうとしているのではないか。彼女は自分自身想い人を裏切ろうとしながら、自分自身の現在進行形の姿に重ねる形で「あなたのお姫様」の裏切りを示唆している。そうしながら、自分の言葉にぐらつく男の姿に、自分の想い人を重ねているのではないだろうか。「あなたのお姫様は誰かと腰を振っている」「そう、今の私のように」「私の王子さまはきっと私を裏切っている」「そう、今のあなたのように」これがこの曲の構造なのだと思う。

つまり、誘惑する女とそのかつての恋人、誘惑される男とそのかつての恋人という、入れ子構造だ。

ここまでくると、強く儚い者たちという言葉の意味もおぼろげに見えてくる。それは古い恋と決別する強さだ。今まさに保証のない誓いに見切りをつける再生の歌だ。同時に、その誓いを守れなかった、想い人を信じ切れなかった弱さの歌であり、実際に裏切られているかもしれない弱さの歌であり、今まさに裏切ろうとしている弱さの歌でもある。

この強さと儚さは歌詞の構造が入れ子構造になっているために、どこまでもどこまでもぐるぐると回る。だから、この曲で語られる世界観は、どこか寓意的で、かつ生々しく、そして微かにやさしい。

それが、この曲の仕掛けであり、意味なのでは…などと思ったりしながら聴いてみるのも、また趣深いことだろうと思う。