ないなりに、ないなる。

物を捨てきれないなりにミニマリスト目指す。(https://seminimalist.info/)のサブブログですよ。

ミニマリストはださいのか?色々書いてみるのこと。


ミニマリストってださい、モノ捨ててるくせにテレビあるやん、家族持ってるやん、一貫してなくなくない? そういう意見を目にします。

これについて、思っていることを書きます。

 たしかにたまに「違うな」と思う時はある

僕自身がミニマリスト志向ですけど、その僕から見ても、「ああ、同じミニマリストって枠で集まっているけど、なんか…多分なんか…この人とはチャンネルが違うぞ」と思う瞬間があります。そこまで極端でなくても「おや、ここはちょっと考え方が違うぞ」みたいな瞬間も含めれば、かなり。色々な人がいます。

どういう時に感じるかというと「オーラが」「禅が」「空間による静寂が」みたいなスピリチュアルの影を感じる時とか、「ミニマリストになっていいことばかり、幸せになるならミニマリスト!」みたいなミニマリストを絶対視しているぽいかんじがする時とか、やたら「素敵」「幸せ」「救われた」みたいな単語が頻出する時とか、「まだ家族や友人をミニマリストに引き込めないんですよねー。絶対幸せになるのに」みたいな周囲に感染させるのが当然だと思っている節がある時とか。誇張している部分もありますが。少なからずね。

ヲタの目線から見たミニマリスト界隈

僕はヲタなので、全てヲタ的なものにたとえてしまうのですが、同じジャンルで集まっていても全然相容れない瞬間というのはあるものです。受けと攻めの順番がどうしたこうした、誰々の隣には誰々がいるべきだろういやそんな設定は公式にはない云々かんぬん。いや、喧嘩はしない。お互いに否定もしない。そういうことで戦争を始める人もいるけれど、少なくとも僕はしない。趣味の数だけ世界がある。おそらく相容れないだろうということを察知するだけ。逆に相容れなくても友人にはなれる。深い。

そしてですね。ヲタ的な常識として、自分の趣味は自分の趣味なんですよ。どんなに自分にとって素晴らしくても、相手にとってそうだとは限らない。無理強いをしてはいけない。わかってますか、先輩。この記事を見てますか、先輩。大昔、大学の夏休み、僕を部屋に連行して、銀河英雄伝説全110話とガンバスターを「基礎教養だ」といって視聴させた一連の事件は、相手が僕だったから喜んで見たものの、一般人相手だったら死んでいたぞ。わかってますか。

そのことを踏まえて考えると、どうもミニマリスト勢というのは、いわゆるヲタ初心者のようなものなのかもしれないとも思えてくるのです。ハマり始めで一番楽しい時期。ヲタの不文律がまだよくわからないので、自分が素晴らしいと思ったものを、自分が素晴らしいと思った強さで、推しまくる。はしゃぎまくる。ヒートアップする。そして火傷したり、まわりを盛大に巻き込んだり、何だりかんだりして、やがて大人になっていく。ミニマリスト勢というのは、ヲタ初心者なのかもしれない。いまいちWEB慣れしていない印象を受けるのも、なんか近い気がする。これは、一気に盛り上がってジャンル形成されたばかりのシマでしばしば起こるひとつの通過儀礼、イニシエーション的なアレなのかもしれない。

ヲタの話、おしまい。

ミニマリストになる前にドロップアウトすればいい

そもそもの話。皆が皆、ミニマリストまで極まる必要なんて全然ない。やりたい人がやればいいと思うのです。かつ、ちょこっとやりたい人は、ちょこっとやればいいと思うのです。カーテンをつけたければつければいいし、テレビが置きたいなら置けばいいし、モノの数なんて20個もないくせに、自室の扉を開けたら、ミニ四駆の立体コースが六畳いっぱいに広がっていてもいい。そんなのは何を選択するかだけの話だと思います。

これはメインブログの方でも何度か言っているのですが、ミニマリスト志向は、ミニマリスト行きのバスに相乗りするようなものでいいと思うのです。で、自分の目的地の近くまでやってきたら、途中下車すればいいのです。リタイアでもなんでもない。だって、それ以上進むと目的地を通り越してしまうのだから。

以前、「最小限主義。」の作者、沼畑直樹さんに飲みがてらお話をうかがったことがあります。沼畑さんは、ミニマリストの敷居を下げて、ミニマリストをもっと広げたいとおっしゃっていた。この点でいうと、僕はそうは思わない。ミニマリストの敷居を下げる必要性も広める必要性も感じない。それはバスの終着駅をめっちゃ手前に設定するみたいなものだ。そうではなくて、終着駅は「極限ミニマリスト前行き」のままでよくて、皆が手前の駅で勝手に自由に降りればそれでいいのです。ただ、みんなミニマリスト行きのバスに乗ったら、途中の駅素通りで終点まで直通だと思ってしまう人が多いので、ちゃんと各バス停で止まりますよとアナウンスする必要自体はあるかもしれない。そんなふうに思っているのです。

そもそもミニマリストと呼ばれなくていい

そもそも系の話を続けるなら、ミニマリストと呼ばれる必要自体が特にないわけです。ミニマリストは手段であって、目的ではない。今の僕は、ミニマリストという呼び名を「検索に便利な単語」くらいにしか思っていないし、自分を指して特にミニマリストと名乗ったこともない。だって、呼ばれようが呼ばれまいが、認められようが認められまいが、僕の生活に全然関係ないのですから。英語の資格証明書がほしいのか、英語が喋れるようになりたいのか。シェフの肩書がほしいのか、おいしい料理が作れるようになりたいのか。僕は後者で、そこに当てはまる名前はなんでもいいと思います。

というか、ミニマリストという呼び名はかっこよすぎます。当初、「ミニマリスト=ミニマルな人」というただそれだけくらいのことしか言っていないこの名前が割と気に入っていました。清貧とか清廉とか、既存の日本的な価値観は清らかだったり貧しかったりするので、特別清らかでも特別貧しくもない宙ぶらりんな僕には、ミニマリストという言葉が、フィットしました。でも、この言葉、最近はちょっとかっこよくなりすぎている気がしています。大概、呼び名の後に(ドヤァがつきそうで、ろくろのポーズが似合いそうな言葉には、ろくなものがありません。ちなみに、僕の本職はシステムエンジニアです。(ドヤァ

そんなわけで、メインブログにも書いたのですが、2016年にいよいよミニマリストという呼び名がゲシュタルト崩壊していったら、もう僕は「モノ少ないのんのん丸」でいいんじゃないかなと思うのです。2016年のミニマリストの新たな呼び名「モノ少ないのんのん丸」。平和だ。かわいい。なんかモノが少なそうってことはわかる。あと、なんかよくわからんってこともよくわかる。充分だ。

思うに、あんまりかっこよくなりすぎるから、ドヤ顔が蔓延するのです。この呼び名なら「若者世代に広がるモノ少ないのんのん丸」とかテレビでテロップが流れても、「最近流行ってるキャラクターグッズかな?」くらいにしか思われないだろうし、ニュースのコメンテーターも真面目な顔をして「いやあ、モノ少ないのんのん丸は今の日本社会を象徴していますね」とか言ったりもしないでしょう。きっと2chtwitterの有志が「のんのん丸描いてみた」と勝手にマスコットキャラクターのビジュアルイメージも作ってくれます。あとは、この単語がミニマリストを凌駕するくらい有力な検索ワードになる未来を待つばかり。完璧なシナリオです。

なんてね。

 

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